「小湊(こみなと)」の場所については、従来「現在の伊予市」とするのが定説であった。そして、そこに在る城が「小湊の城」であり、それは「河野家の拠点の城のひとつ」とされてきた。

しかし、これについては、郷土史家の間でも「当時の河野家の力が及ぶのは、せいぜい松山市から今治市付近に至る範囲ではなかったか」、はたして「松山より南の伊予市にそんな拠点城を築く事が可能だったのか」と訝(いぶか)る声が、以前からある。

いつの頃であったか、愛媛大学の院生が、今治藩の「城下図面(江戸時代の物)」の片隅に、「小湊」と小さく書かれた地名文字を偶然発見した、という記事を新聞で見たのを覚えている。
その記事によると、その図面に「小湊」と記されていた場所は、ちょうど現在の「今治市砂場(さば)」付近になっていた。

今治市には古来国府が置かれており、伊予守護職河野氏が国府に拠点となる港を持っていても不思議はない。「小湊」を伊予市とするよりも、「今治市砂場」と考える方が自然ではないだろうか。

「小湊の城」と同様、「砂場の城」という表記も郷土史資料にはたびたび出て来る。「小湊の城」と「砂場の城」は同一の城。
これは、至極納得のいく事柄である。



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