従来の郷土史とはその内容が異なるが、
戦国時代末期まで(今治市玉川町にあった)幸門城(さいかどじょう)の最後の城主、
正岡経政について、「(幸門)正岡家系図」、「(幸門)正岡氏覚書」、
「(国田屋 くにだや)別宮家覚」の、いずれも近世の文書を基にして。




正岡経政、官名は右近太夫(うこんのだいふ)。生年は1545年。
父は正岡経綱(つねつな)。母は別宮(べっく)氏の娘。

父、経綱は第53代伊予守護職、河野弾正小弼通直(こうの だんじょう しょうひつ みちなお)の男子、
村上通綱(むらかみ みちつな)として、時に、「砂場(さば)の城」とも「小湊(こみなと)の城
とも呼ばれた河野家の国府館(今治市)に生まれる。
この通綱は、後に幸門城の城主、正岡経澄(まさおか つねずみ)の隠居の後に城主として入る。
正室は(松山市北条)日高山城を守っていた別宮氏の娘。
いわゆる、入り婿入り嫁の形を取る。
この時通綱は、「通」の文字を(幸門)正岡家当主が用いる「経」に変えて「経綱」と名乗る。

1530年代から1560年代にかけて、伊予の国は(松山市の本城)湯築城(ゆずきじょう)と
国府間の間で覇権争いが続いていた。
前者の旗頭は、53代当主が湯築城でもうけた男子、河野晴通(こうの はるみち)。
後者のそれは、経綱の兄で国府館の男子、村上通康(むらかみ みちやす)。

当初は国府館に勢いがあったが、1566年ころにこの村上通康が病に伏す(1567年病没)と
湯築城が力を盛り返す。
幸門城でも、それまで中心をなしていた国府館系の重臣が、別宮修理太夫光貞(べっく しゅりのだいふ みつさだ)を中心とした湯築城系のそれ追い落とされる。

国府館系の経綱も隠居(1566年)を強いられる。
湯築城派は、その後に、経綱の男子、経政(21歳)を当主にかつぎ、別宮光貞が後見となる。

尚、この別宮光貞は、経政の母の弟、つまり叔父ででもあった。
経政の正室は河野晴通の娘。
「正岡氏覚書」によれば、この正室は河野家最後の当主、河野牛福丸通直(うしふくまる みちなお)の姉とされる。


河野刑部太夫晴通の御子五人あり。
四姫は正岡右近太夫経政の室・・
五男通直・・・

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(「正岡氏覚書」)

( 四姫は・・・五男・・・ )


幸門城からの国府館色一掃の功績によって別宮光貞は、河野晴通より現在の当寺院山内城を申し受け、
そこに屋敷を構える。
その辺りを「別宮家覚」では

 

河野晴通公より勝地を望み申せとの儀に
依て越智郡米田の郷中村に居住仕り候


と明記されている。


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( ・・・勝地を望み申せ・・・ )


しかし、その幸門城も、1585年の豊臣秀吉の四国攻めによって破城。
その後、
経政が(従弟でもある)河野家牛福丸通直に随行して(広島県)竹原に渡ったまでは判っているがそれ以降の足取りは不明となる。

ただ、前述の別宮家は江戸時代に入ると今治藩の豪商、国田屋(くにだや)となり。
経政は、その晩年を同家の庇護を受けて(当寺院境内地の)屋敷に寓居し、ここで没している。
さらに、別宮家は経政のために五輪の石塔を建立。当寺院裏山にある五輪塔がそれである。
おおよそ1.8メートルもある立派な石塔である。

この別宮家は(1676年)今治藩の命によって、一族全員(今の今治市の本町辺りに)移住を強いられ、
この時(玉川町の)屋敷を当寺院に寄進[※この時の実質の当主は、中村の庄屋
湯山(ゆやま)家から別宮家息女の婿養子として国田屋を継いだ五代喬貞(たかさだ)]。
屋敷の少し下に在ったと思われる当寺院を屋敷跡の現在の位置に移築。
さらに、屋敷敷地の一隅に祭祀されていた(と思われる)経政の五輪塔も現在の場所に引き上げている。
この辺りを「別宮家覚」では



医王寺上の屋敷へ寺を引き申すにつき・・・
寺の上の山ばなへ・・・右近太夫墓を・・・
引き申し候


と記している。

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( ・・・寺の上の山ばなへ・・・右近太夫墓を・・ )


当寺院に祀る位牌によると、経政の法名は「一直居士」(「正岡家家系図」では「一心居士」、
また「一真居士」の説もある。)

河野当主の孫で、しかも幸門城主のそれにしては粗末である。
しかし、経政の甥は大阪夏の陣に豊臣方として参陣の記録もあり、
幕藩体制未だ不安定の時勢を考慮した、当時の当寺院住職の慮りかとも思われる。


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( 元禄7(1694)年の別宮家から医王寺への東前寺(阿弥陀堂)「譲置状」 )


歴史は薄皮を剥ぐ様にして明らかになると言われる。
「築山本河野家譜」に重きを置いた従来の伊予戦国史には「牛福丸通直を池原家の男子とする系図」始め
不自然なところがある。
上記の正岡氏関係の資料も、もしかすれば(自らをより河野嫡流家に近しいものに位置付け様とした) 多分に作為的なものかもしれないが。
この資料がもし本当だとすれば・・・。

村上通康が河野晴通と跡目争いを演じたのも。通康の男子、通総(みちふさ)が何度も(湯築城)河野家に合戦を挑んだことも理解できる。
そして、もし晴通が(築山本に書かれている様には)早世しておらず、
(通康存命中は)湯築城近くで隠棲しており。
さらに、もし牛福丸が晴通の嫡子であり・・・通康の没後に、晴通が牛福丸を河野家当主に据えて院政を敷いたとすれば・・・
伊予の戦国史はずいぶん解りやすいものとなる。



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( 寺の裏山中腹から正岡経政公の五輪塔を仰ぐ )


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( 五輪塔近影ー高1.8メートルー )